東京地方裁判所 平成4年(ワ)5783号 判決
原告
池中義徳
右訴訟代理人弁護士
稲田輝顕
同
稲田耕一郎
同
阿部元晴
同
遊佐光徳
被告
田淵節也
同
吉田真幸
同
土田暢
同
外村仁
同
中野淳一
同
酒巻英雄
同
鈴木政志
同
水内靖裕
同
橋本昌三
同
橘田喜和
同
田窪忠司
同
岩崎輝一郎
同
福島吉治
同
田淵義久
被告ら訴訟代理人弁護士
手塚一男
同
大江忠
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告らは、連帯して、野村證券株式会社に対し、一億円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(被告田淵節也、被告吉田、被告橘田、被告田窪については平成四年五月六日、被告中野、被告水内、被告橋本については同月七日、被告土田については同月一五日、その余の被告らについては同月三日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、野村證券株式会社の株主である原告が、取締役の責任を追及する株主代表訴訟である。
野村證券は、平成二年三月、東京放送株式会社に対して有価証券の売買による損失約三億六〇〇〇万円を補填したが、原告は、この損失補填は野村證券の当時の代表取締役であった被告らが取締役としての義務に違反して会社に補填額相当の損害を被らせたものであると主張して、そのうち一億円を会社に賠償するよう求めた。
一争いのない事実
1 当事者
(一) 野村證券は、大正一四年一一月二七日に設立された株式会社であり、資本金は約一八一八億円、営業の目的は有価証券の売買、その媒介、取次ぎ及び代理、有価証券の引受け及び売出しなどである。
(二) 原告は、平成元年一〇月二五日から野村證券の株式一〇〇〇株以上を保有している。
(三) 被告らは、平成二年三月当時、いずれも野村證券の代表取締役の地位にあった。
2 損失補填に至る経緯
(一) 東京放送は、平成元年四月、住友信託銀行株式会社との間で東京放送を委託者、住友信託銀行を受託者とし、期間を平成二年三月までとする特定金銭信託契約を締結して一〇億円を信託し、これに基づき住友信託銀行が野村證券に取引口座を開設して、有価証券の売買による東京放送のための資金運用が開始された。
この特定金銭信託契約に基づく勘定を利用した取引(特金勘定取引)においては、東京放送は、投資顧問会社との間で投資顧問契約を締結しておらず、野村證券から有価証券の売買に関する情報の提供を受けて、住友信託銀行に対し売買の指図をし、この指図に基づいて住友信託銀行が野村證券に有価証券の売買を発注するという関係にあった(いわゆる営業特金)。
(二) 東京放送のための特金勘定取引口座には、平成元年末ころ、約二億七〇〇〇万円の損失が生じていた。
(三) 平成元年一二月上旬ころ、大和證券株式会社が大口顧客の損失約一〇〇億円を肩代わりしていたなどと報道される中で、大蔵省証券局は、同月二六日、社団法人日本証券業協会に対し「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」と題する局長通達を行い、また、その趣旨を徹底するための業務課長事務連絡を行った。
その内容は、証券会社の大口顧客に対する損失補填は、一般投資者の証券取引についての公平感や証券市場に対する信頼感を損なうものであり、証券取引の公正性や証券市場の透明性の確保の観点から、証券会社の営業姿勢の適正化が強く要請されるとしたうえ、証券会社に対し、法令上の禁止行為である損失保証による勧誘や特別の利益提供による勧誘はもちろんのこと、事後的な損失の補填や特別の利益提供も厳にこれを慎むことを求めるとともに、特金勘定取引については、原則として顧客と投資顧問業者との間に投資顧問契約が締結されたものとすること、具体的には、顧客が投資顧問契約を締結していることを確認するか、あるいは、顧客との間で運用に当たり売買一任勘定取引、利回り保証、特別の利益提供などの行為は行わない旨の書面を取り交わすかの措置をとって取引を開始し、又は継続することを求めるものであった。
(四) 平成二年一月ころから株式市況が急落し、この急落によって、東京放送のための特金勘定取引口座には更に損失が生じ、期間満了を待たずに取引を終了させた同年二月末ころには損失額は約三億六〇〇〇万円となった。
3 本件損失補填
(一) 平成元年一二月二六日付け大蔵省証券局長通達(その徹底のための事務連絡を含む。以下同じ)を受け、野村證券では、専務取締役で管理部門の最高責任者であった被告水内が担当者となって、営業特金の総点検を行うこととし、平成二年一月から二月にかけて、各営業部店の担当者が顧客との間で営業特金解消のための交渉を開始した。
その過程で、顧客から運用実績に対する不満と営業特金の解消による評価損の発生についての苦情が寄せられたため、各営業部店長が調査して損失補填が必要と判断したものについて、同年三月上旬、被告水内に報告がされた。
同月一三日、被告らが出席して野村證券の専務会が開催された。専務会では、被告水内から東京放送ほかの顧客に生じた損失について総額約一六一億円の補填をすることが提案され、了承された。
(二) 野村證券は、平成二年三月一四日、東京放送にルクセンブルク証券取引所に上場の大成建設ワラント(一ワラント額面五〇〇〇ドル)一二二五ワラントを代金合計六一万二五〇〇ドル(当時の為替相場で九一二六万二五〇〇円)で売り、同日直ちに、東京放送は、これを野村證券に代金合計304万7187.5ドル(同四億五二八一万二〇六三円。ただし、国内取引税一三五万八四三六円を含む)で売り戻した。この結果、東京放送は三億六〇一九万一一二七円の利益を得、これによって営業特金の運用による損失が補填された。
4 公正取引委員会の勧告
公正取引委員会は、平成三年二月二〇日、野村證券ほか三社の証券会社に対し、顧客との取引関係を維持し、又は拡大するために損失補填を行うことは、不公正な取引方法の一般指定九項(正常な商慣習に照らして不当な利益をもって、競争者の顧客を自己と取引するように誘引すること)に該当し、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)一九条に違反するとして、同法四八条二項の規定に基づき勧告を行い、四社とも勧告を応諾した。
5 代表訴訟提起に至る経緯
原告は、平成四年三月四日、野村證券に対し被告らの損失補填による損害賠償責任を追及する訴訟の提起を請求したが、野村證券が訴えを提起しないので、同年四月一〇日、本件訴訟を提起した。
二主張
1 原告の主張
(一) 善管注意義務、忠実義務違反
本件損失補填は、①その顧客との関係で、仲介業者としての行動基準である職務の誠実で公平な遂行をないがしろにし、②補填先の選別自体、一般投資者を無視した合理的理由もない理不尽なものであり、証券市場及び野村證券に対する信用を失墜させるものであるばかりか、③市場の公平な価格形成を歪曲して市場を混乱に落とし入れる行為で、証券業における正常な商慣習に反するものであり、④会社が一方的に不利益を被るものであって、経営上の合理的な判断とは到底認められない。また、⑤損失補填のために行われたワラント取引は、会社に一方的に不利益な価格で行われたもので、公正な価格による正常な取引行為ということはできない。
したがって、本件損失補填は、取締役の善管注意義務(商法二五四条三項、民法六四四条)、忠実義務(商法二五四条の三)に違反する。
(二) 証券取引法違反
証券会社が顧客に対し損失補填を行うことは、投資者が自己の判断と責任で投資をするという証券投資における自己責任の原則に反し、証券取引の公正性を阻害するものであって、証券業における正常な商慣習に反する。すなわち、証券会社は、有価証券の取引を公正ならしめ、その流通を円滑ならしめるという証券取引法の目的の実現を図るべく、①証券市場における正常な価格形成機能の保持、②市場仲介業者としての公正性の保持という責務を負っている。こうした責務を負っている証券会社が、損失保証、損失補填を行うときは、投資者に自己責任の原則の下での投資判断を行わなくさせ、市場の価格形成機能が歪められることとなる。
また、証券会社による損失補填は、証券会社の市場仲介者としての中立性・公正性を損ない、投資者間に不公平感を募らせ、この結果、投資者の証券市場に対する信頼感を失わせることとなる。本件を含めた被告らによる損失補填は、証券市場の公正性に対する社会の信頼を喪失させ、証券取引の低迷の一要因となり、証券会社の信用を失墜させ、証券会社は減益を余儀なくされた。
このような趣旨から、平成三年法律九六号による改正後の証券取引法は、証券会社による損失補填を刑事罰をもって禁止したものと解される。改正前の証券取引法は損失補填を具体的に禁止してはいなかったが、五〇条一項三号、四号では損失保証に基づく取引勧誘行為が禁止されており、その趣旨は、改正証券取引法が損失補填を禁止した趣旨と異ならない。
したがって、本件損失補填は、改正前の証券取引法の下においても、その趣旨に反し、同法五〇条一項三号、四号に違反する行為である。
(三) 独占禁止法違反
前記のとおり、証券会社が顧客に対し損失補填を行うことは、証券投資における自己責任の原則に反し、証券取引の公正性を阻害するものであって、証券業における正常な商慣習に反する。市場における有力な事業者である野村證券が、有力な顧客との取引関係を維持、拡大するために損失補填を行うことは、正常な商慣習に照らして不当な利益をもって競争者の顧客を自己と取引するように誘引するという不公正な取引方法に該当し、本件損失補填は独占禁止法一九条に違反する。
(四) 結論
以上のとおり、被告らによって行われた本件損失補填は、取締役の善管注意義務、忠実義務に違反し、証券取引法、独占禁止法に違反するものであるから、被告らには、商法二六六条一項五号により、この法令違反行為により会社が被った損害として、損失補填額に相当する三億六〇〇〇万円の損害を賠償する責任がある。
2 被告らの主張
(一) 本件損失補填は、以下のような経営上の判断によるものであるから、被告らに取締役としての善管注意義務違反、忠実義務違反は存在しない。
(1) 平成元年一二月二六日付け大蔵省証券局長通達により、特金勘定取引について、従前の営業特金という形態での取引の解消が必要となった。ところが、営業特金については証券会社と顧客との間に契約関係がないことから、顧客が証券会社との間で売買一任勘定取引などは行わない旨の書面を取り交わすことに拒絶反応を起こす事態が予想され、また、平成二年に入って株式市況が急落を示してきたことから、投資顧問契約を締結して特金勘定取引を継続するという選択も希望しない顧客が多かったため、被告らは、通達の趣旨に沿って営業特金の解消を進めていくためには、解消により表面化する損失について何らかの損失補填が必要になると判断した。
(2) 東京放送は、野村證券の大口顧客であった。すなわち、野村證券は、東京放送から有価証券取引口座の開設を受け、昭和四八年三月から有価証券の売買などの取引を継続し、また、東京放送が新株や転換社債を発行して資金調達をする際には、主幹事証券会社になってきた。野村證券は、これらの取引により、直近の三回の資金調達により合計一六億七二六六万円の引受手数料を、また、本件を含む四回の営業特金の運用に伴い合計九億〇二四九万円の委託手数料を、さらに、通常の有価証券取引では合計一八七一万円の委託手数料を得ていた。
証券会社が証券発行の主幹事となることには、①最も引受数量が多くなり、引受手数料が多く得られるという利益のほか、②引受数量が多くなるから、自社の顧客に対してその新証券を最も多く供給できる、③新証券を買い付けた顧客は、買い付けた証券会社を通じて売却することが多いから、この関係での手数料収入も期待できる、④多くの事業会社の主幹事となること自体によって社会的信用が高まるという利益がある。
(3) 本件の営業特金の運用によって平成元年一二月末までに生じた東京放送の損失二億七〇〇〇万円は、取引開始当初、一〇億円の資金のうち八億円を建設株の一銘柄に投資したことによる損失一億五〇〇〇万円と、同年六月に大阪証券取引所で初めて開始された「日経二二五」のオプション取引による損失一億三〇〇〇万円とによるものであり、いずれの取引においても、野村證券のアドバイスは、東京放送に対する十分な配慮をしたものとは言い切れないものであった。
(4) そこで、被告水内は、東京放送への損失補填に関して、①損失補填を行わない場合には主幹事証券会社の地位を失うことが想定されること、②東京放送からはそれまでに多額の手数料収入を得ていたこと、③野村證券の当期決算は高水準の利益が想定され損失補填が可能であったことから、損失補填により東京放送との取引関係を維持し、拡大を図ることが長期的には野村證券の利益になると判断した。
(二) 平成三年改正前の証券取引法は、顧客に損失が生じた後これを補填する事後的な損失補填を禁じてはいなかった。
(三) 独占禁止法において禁止されるのは損失補填自体ではなく、損失補填により競争者の顧客を自己と取引するように誘引することである。
また、損失補填により、野村證券は東京放送との取引関係を維持するという利益を得ており、約三億六〇〇〇万円の損失補填額自体を野村證券の損害とみることはできない(ちなみに、東京放送は平成四年七月と平成五年三月に社債を発行し、主幹事を維持した野村證券は一億二〇〇〇万円余の手数料収入を得ている)。
三争点
野村證券の取締役である被告らが、顧客との取引関係の維持、拡大を図る目的で、有価証券市場における取引によって顧客の被った損失を会社の資金で補填したことは、取締役の善管注意義務、忠実義務に違反し、あるいは証券取引法、独占禁止法に違反するかどうか。違反するとした場合には、損失補填として支出された約三億六〇〇〇万円を会社の損害とみるべきかどうか。
第三争点に対する判断
一善管注意義務、忠実義務違反について
1 取締役は会社の経営に関し善良な管理者の注意をもって忠実にその任務を果たすべきものであるが、企業の経営に関する判断は、不確実かつ流動的で複雑多様な諸要素を対象にした専門的、予測的、政策的な判断能力を必要とする総合的判断であるから、その裁量の幅はおのずと広いものとなり、取締役の経営判断が結果的に会社に損失をもたらしたとしても、それだけで取締役が必要な注意を怠ったと断定することはできない。会社は、株主総会で選任された取締役に経営を委ねて利益を追及しようとするのであるから、適法に選任された取締役がその権限の範囲内で会社のために最良であると判断した場合には、基本的にはその判断を尊重して結果を受容すべきであり、このように考えることによって、初めて、取締役を萎縮させることなく経営に専念させることができ、その結果、会社は利益を得ることが期待できるのである。
このような経営判断の性質に照らすと、取締役の経営判断の当否が問題となった場合、取締役であればそのときどのような経営判断をすべきであったかをまず考えたうえ、これとの対比によって実際に行われた取締役の判断の当否を決定することは相当でない。むしろ、裁判所としては、実際に行われた取締役の経営判断そのものを対象として、その前提となった事実の認識について不注意な誤りがなかったかどうか、また、その事実に基づく意思決定の過程が通常の企業人として著しく不合理なものでなかったかどうかという観点から審査を行うべきであり、その結果、前提となった事実認識に不注意な誤りがあり、又は意思決定の過程が著しく不合理であったと認められる場合には、取締役の経営判断は、許容される裁量の範囲を逸脱したものとなり、取締役の善管注意義務又は忠実義務に違反するものとなると解するのが相当である。
2 証拠(〈書証番号略〉、証人増田、被告水内本人)及び弁論の全趣旨によれば、本件損失補填に至る経緯については、前記の争いのない事実のほか、以下の事実が認められる。
(一) 東京放送は野村證券の大口顧客であり、野村證券は、昭和四八年三月から東京放送と有価証券の売買などによる資金運用の取引を継続し、また、東京放送の証券発行に際しては主幹事証券会社の地位にあって、引受手数料など被告ら主張の手数料収入を得ていた。
主幹事証券会社となると、社会的に信用を得るだけでなく、多額の引受手数料などの収人を得ることができるため、主幹事となることについては証券会社相互間で競争があり、また、いったん主幹事から外れるとこれを取り返すことには困難が伴うため、各証券会社は、証券発行を行う事業法人である顧客との取引関係の維持、拡大に努めている。
(二) 平成元年一二月二六日付け大蔵省証券局長通達は、既存の営業特金について所要の措置を取るべき期限を平成二年末までとするとともに、証券会社に対し、各年三月末及び九月末に特金勘定取引の口座数、そのうち投資顧問契約のない営業特金の口座数などの報告をするよう求めていた。
野村證券を初め各証券会社では、この通達の主眼は早急に営業特金の解消を求める点にあると理解し、株式市況が急落する状況下で顧客との関係を良好に維持しつつ営業特金の解消を進めていくためには、損失補填を行うこともやむを得ないという考え方が大勢を占めるようになった。
(三) 野村證券の東京放送との取引担当者は、この通達が出された直後から、数回にわたり、東京放送の財務部長らと本件の営業特金の解消について交渉した。東京放送側からは、投資顧問契約を締結して特金勘定取引を継続する意思はない、当期末の決算で損失が表面化するので困っているなどという話があった。
そこで、野村證券の担当者は、東京放送に対し損失補填をしなければ今後の取引関係に重大な影響が生ずると考え、営業特金の総点検の担当者であった被告水内に損失補填が必要である旨の報告をした。
(四) 被告水内は、この通達に従って平成二年三月末までに営業特金を可能な限り解消する必要があるが、一方、拡大しつつある損失をそのままにして営業特金を解消することになれば、顧客の野村證券に対する信頼を失うおそれがあると考えて、それまで野村證券に多くの利益をもたらしていた顧客に対しては、将来の利益を確保するために損失補填をすることもやむを得ないと判断した。これに加えて、東京放送の営業特金については、有価証券市場が好況であった当時から損失が生じていたため、被告水内は、野村證券の提供する情報についての信用を失い、将来の東京放送の証券発行に際しての主幹事証券会社の地位を失うおそれがあることも考慮して、本件損失補填の実施を専務会に提案するに至った。
(五) 東京放送に対する損失補填の具体的な方法については、野村證券と東京放送の各取引事務担当者によって、市場や一般の投資者に影響が及ばない外貨建てワラントの相対取引による売却益をもって損失を補填することが合意された。
3 これらの事実及び前記の争いのない事実によれば、被告らが被告水内の提案に基づいて本件損失補填を実施することとした経営判断は、その前提となった事実の認識に不注意な誤りがあるということはできず、また、その意思決定の過程についても、損失補填のほかに採り得る手段がなかったかどうか、損失を補填するとしても三億六〇〇〇万円という巨額のものとせざるを得なかったかどうかなど、その合理性に疑問の余地が残らないわけではないものの、野村證券と東京放送との従来の取引関係、営業特金という形態での資金運用の実情とその解消への動き、平成二年一月以降の株式市況の急落など、当時の諸状況に照らすと、これが著しく不合理で許容される裁量の範囲を逸脱したものであるとまでいうことはできない。
したがって、被告らが本件損失補填を決定し、実施したことをもって、取締役の善管注意義務又は忠実義務に違反する行為であったということはできない。
二証券取引法違反について
1 本件損失補填がされた当時施行されていた平成三年改正前の証券取引法では、五〇条一項三号、四号が、有価証券の売買などの取引について、証券会社が顧客に対し損失の全部又は一部を負担することを約して勧誘する行為をしてはならないものとし、勧誘に際しての損失保証を禁止していたが、顧客に損失が生じた後その損失を補填する行為については、これを禁止する規定はなかった。その後、平成三年の同法改正により、初めてこれが禁止されることになったが(五〇条の二第一項二号、三号)、改正法施行前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例によることとされている(附則二項)。
なお、証券取引法は、国民経済の適切な運営及び投資者の保護に資するため、有価証券の発行及び売買その他の行為を公正ならしめ、かつ、有価証券の流通を円滑ならしめることを目的とし(一条)、その目的実現のために、証券会社の活動に関して詳細な行為規範を定め、これを刑事罰と大蔵大臣による行政処分とによって担保するとともに、証券業協会及び証券取引所が自主的な規律を行うこととしている。この規律で損失補填に関連するものとしては、日本証券業協会の公正慣習規則九号「協会員の投資勧誘、顧客管理等に関する規則」の八条(平成元年一二月二六日付け大蔵省証券局長通達を受けて同日改正されたもの)が、協会員たる証券会社は「損失保証による勧誘、特別の利益提供による勧誘を行わないことはもとより、事後的な損失の補填や特別の利益提供も厳にこれを慎む」ものと定めている(〈書証番号略〉)が、これも明確に事後的な損失補填を禁止するものとはいえない。
したがって、平成三年の証券取引法改正前は、損失保証の実行に当たらない事後的な損失補填については、明文上これを禁止する規定は存在しなかったのであるから、本件損失補填は同法に違反するものではないというべきである。
2 ところで、原告は、本件損失補填は平成三年改正前の証券取引法の下でも同法の趣旨に反し、同法五〇条一項三号、四号に違反すると主張する。
確かに、証券市場においては、証券取引につき自己責任を負う多数の投資者それぞれが真剣な投資判断を行うことによって適正な価格形成が行われるのであり、このようにして適正な価格形成が行われることを通じて証券市場における資金の適正配分が実現するのであるから、証券会社が顧客に対して損失の補填をすることは、事後的に初めて行われる場合であっても、損失発生前に行う損失保証の場合と同様に投資者の自己責任原則に背反するものであり、それが真剣であるべき投資判断を安易なものとする結果、証券市場における適正な価格形成を阻害するに至る危険をはらむものである。また、事後的な損失補填は、一般投資者の証券取引についての公平感や証券市場に対する信頼感を損なうものであり、証券会社の健全な経営を損ない、一般投資者に不測の損害をもたらす危険を伴うものであるという点においても、事前の損失保証と同様の性質をもつ。
しかし、事後的な損失補填は、投資判断がされる前に行われる損失保証とは異なり、それ自体としては投資者の投資判断に直接影響を与えるものではなく、一般に、投資者が不確実な損失補填を期待して安易な投資判断をする危険は小さいと考えられるから、証券市場における適正な価格形成を損なうことについては間接的な危険があるにとどまる。また、将来の価格変動が確実に予測できないままされる損失保証に比べ、損失額が確定した後にされる損失補填は、証券会社の経営の基盤を揺るがしてまで行われることはないであろうから、その健全性を損なう危険も格段に小さいものということができる。
したがって、平成三年改正前の証券取引法の下において、事後的な損失補填を取引勧誘の際の損失保証と同視することは相当でなく、原告の主張を採用することはできない。
三独占禁止法について
1 前記のように、証券会社が顧客に対して有価証券の売買などの取引について生じた損失の全部又は一部を補填することは、証券市場の担い手である証券会社が証券投資における自己責任原則を放棄し、証券市場において適正に形成された価格を証券市場外で修正するものであり、証券取引の公正性を害するものであるから、証券業における正常な商慣習に反するものというべきである。そして、本件損失補填は、顧客との取引関係を維持し、又は拡大する目的で一部の顧客に対して行ったものであるから、正常な商慣習に照らして不当な利益をもって競争者の顧客を自己と取引するように誘引するものであって、不公正な取引方法(昭和五七年公正取引委員会告示一五号)の九項(不当な利益による顧客誘引)に該当し、独占禁止法一九条に違反するものといわなければならない。
2 しかしながら、このことから直ちに、本件損失補填による支出額を野村證券に生じた損害ということはできない。
すなわち、損失補填が独占禁止法上問題とされるのは、損失補填を行うことにより競争者の顧客を自己と取引するように誘引した場合であって、損失補填を行うことそれ自体が独占禁止法一九条に違反するものではないし、また、同条に違反する行為については、公正取引委員会がその行為の差止め、契約条項の削除その他その行為を排除するために必要な措置を命ずることができる(同法二〇条)とはされているものの、刑事罰の対象とはされていないことから明らかなとおり、その違法性は、、行為自体を無価値なものとしなければならないほど強いものではない。したがって、不当な利益による顧客誘引に該当する行為によって会社が被った損害を認定するに当たっては、競争者の顧客を自己と取引するよう誘引するに際して一定の支出をしたことが会社に対してどのような損害を与えたかという観点から、支出額のみならず、その行為によって会社に生じた利益をも総合考慮してこれを行うのが相当である(この点で、例えば贈賄行為については、それが会社の利益になったとしても、その支出は公序良俗に反し許されないものであって、支出額が直ちに会社の損害額になるというべきであるのとは異なる)。
本件においては、証拠(〈書証番号略〉、証人増田、被告水内本人)及び弁論の全趣旨によれば、取締役である被告らは、約三億六〇〇〇万円を支出して本件損失補填を実施しても、それにより東京放送との取引関係が維持され、拡大されるなら、長期的にみて支出金額に見合う利益が会社に得られると考えて本件損失補填を行ったこと、実際に、本件損失補填後、東京放送との取引関係が継続され、それによって野村證券が既に相当額の利益を得ており、かつ、今後も得られる見込みであることが認められる。
したがって、これらの事実を考慮すると、本件損失補填が独占禁止法に違反するものであっても、会社との関係においては、これによって原告が主張する損害が生じたとは認めるに足りない。
四結論
以上のとおり、本件損失補填は、証券市場の担い手である証券会社が、その自覚を欠き、証券取引の基本原則である自己責任原則に背反して行ったものであり、証券取引についての公平感や証券市場に対する信頼感を損なうものであって、当時これを禁止する法令はなかったものの、まさに不祥事として社会的に非難されるべき行為であった。
しかし、営利を目的とする会社とその取締役との関係でこれをみるときは、当時の諸状況を考慮すると、被告ら取締役が東京放送との取引関係を維持、拡大する目的で本件損失補填を決定し、実施したことは経営判断の裁量の範囲を逸脱したものとはいえず、これをもって、取締役としての義務に違反したものということはできない。また、本件損失補填は、損失補填を行うことによって競争者の顧客を自己と取引するように誘引したという意味で独占禁止法に違反するものではあるが、会社との関係においては、これによって会社に損害が発生したものと認めることはできない。
よって、原告の請求はいずれも理由がない。
(裁判長裁判官片山良廣 裁判官杉原則彦 裁判官伊東顕)